豊橋祇園祭は、もとは吉田神社 (牛頭天王社、吉田天王社) の神事として始まりました。
吉田神社は、祭神として古事記にも登場する素戔嗚尊 (すさのおのみこと) をお祀りしており、旧社家に残された資料によると、その創建は1124年とされております。
吉田神社は、京都の八坂神社に端を発する牛頭天王信仰に結びついています。祇園精舎の守護神である、この荒ぶる神には疫病を払う力があるとされていました。
こうした信仰にもとづき、吉田神社は、古くから武将に親しまれ、特に、源頼朝に尊ばれていた事でその名が知られています。東海道を渡る武士達にとって、三河地方 (愛知県東部) は東から西、あるいは西から東への分岐点であったこととも無関係ではないでしょう。
また、吉田神社は手筒花火発祥の地とされており、境内には記念碑が建てられています。
三河吉田 (現: 豊橋) の豊橋祇園祭の始まりは、鎌倉時代の初め頃であったとされています [井沢 1982]。 疫病払いを祈願する祇園祭では、火の使用による悪霊放逐という考えが、やがて手筒花火の放揚に結びついたと推察されます。しかし、花火を打上げ始めた時期 に関しては諸説あり、少なくとも戦国時代の鉄砲伝来 (1543年)以降であったと考えられます。戦国時代の1558年、吉田城城代
(今川義元の統治下)により手筒花火の奉納が執り行われ、氏子八ヶ町から手筒を放揚し、技を競い合ったという記録が社史に残されています。また、この頃に は本町の路上で流星手筒や建物綱火 (仕掛け花火の一種) などが小規模ながら打上げられていました。
時が進んで江戸時代には、平和の訪れとともに火薬の利用が多様化し、また、吉田藩主の保護を受けながら、本格的な花火大会へと成長していきました。この ように、豊橋祇園祭の花火には日本国内でも有数の歴史があり、江戸時代当時から、多くの文献にその盛大な祭りの様子が描かれています。 同時に江戸時代に
は、徳川家康の出身地であった三河地方において、火薬の製造・貯蔵に関する規制が他藩に比べ寛大でした。こういった背景から、三河武士のあいだで火薬の利 用が広まり、打ち上げ花火をあげる技術的な土台ができたと考えられています。
この、吉田神社への奉納花火から発達し、境内で余興として打上げていた仕掛け花火などが、のちに豊川の河川敷でも行われる様になりました。現代では、前夜祭を含めて3日間に及ぶ、夏の一大風物詩となりました。
豊橋祇園祭の3日目を、吉田神社における手筒花火と大筒の神前放揚、豊川河川敷における、打上げ・仕掛け花火と川手筒、そして3日目の本祭、吉田神社から出発して氏子八ケ町を廻る神輿の渡御(みこしのとぎょ)に分けてご紹介します。